夜桜ちりぢり
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空が泣きそうだと言った。

窓の方を見上げて言うにつられて外を見ると、雨は落ちてはいなかったが先程から遠くで聴こえる雷鳴が、じきにこちらも荒らすだろう事を知らせていた。


「怖いのか?」
「怖かないですよ、あんたじゃあるまいし」
「あ?別に俺だって怖かねーよ」


返答はなくて、嘘つきと言わんばかりの目線でこちらを一瞥しては、もう一度空を仰いだ。


「桜が散っちゃう」


散りゆく花を浮かべて哀愁に浸るなんてお前はそんなに酔狂な奴だったか、思ったが口には出さなかった。


「散るだろうが、また咲くだろ」
「来年もまた見れるかな」


今年も漏れずに行った、最早恒例行事となった花見の桜の木をを思い出しているのだろう。 まるで未来などないとでも言いたげに、人を斬ることに躊躇いすら感じさせないの、弱さを含んだ物言いが珍しくらしくなくて、おかしかった。


「死なないんだろ?お前は」
「そうですね、戦じゃ死なない」


戦じゃ、とはどういう事か。問うと、そのうちわかる、やわらかく影を落とした嫌な笑顔だった。
そんなに名残惜しいなら、掛けられた隊服のポケットに確かと、浮かんで取り出したそれを広げた。


「ほら、来年までこれで我慢しとけ」
「持って来てくれたんですか?わざわざ?」
「いや屯所の前に落ちてた」
「・・まあいいや、貰っときます」


受け取った一枚の桜の花弁をちりめんの和紙に乗せるとは、机に置いていた猪口を取って傾けた。


「昼もいいけどやっぱり夜桜ですね、最高の酒の肴だ」


酔狂が飲み過ぎだ。少しかすれた声でまた今年もひとつ、季節が過ぎていく事を心の底から惜しむようにそれを眺めて呟いた、あの時の顔はきっと一生、忘れられない。



あれから三月程だった。自室で喀血し倒れていたところを永倉が発見し、急遽担ぎ込まれた幕府お抱えの病院で、担当した医師は一言、もう長くないと言った。
ただでさえ天人の襲来以来原因不明の病が水面下で蔓延しているような世界で、腕も名もある随一の人間に匙を投げられてしまえばもう、俺達にはどうする事も出来なかった。

延命も入院も御免だと、駄々をこねた為本人の意を酌んで屯所の離れに隔離されて以来床に伏せていた。

日に日にやつれ細っていく肩を隠して、何事もないような顔で笑うが痛々しかった。 ゆっくりと迫り来る死をただ大人しく待つ事しかできないなんて、こんなに歯痒くて苦しくて、おそろしい事はない。




「もう来ないでください」


うつる病です、こちらを見ずに呟くように言った。怒っているとも悲しんでいるとも取れる、今年も鳴き始めた、外から聞こえる蝉の声にもかき消されそうな静かな音だった。


「知ってるよ、んな事ァ」
「死にたいなら止めはしませんけどね、わたしはあんたと心中なんて御免蒙ります」
「・・いいから寝てろよ、身体に障る」
「それにあんたのそんな顔、見たくありませんから」


表に出さないよう気を付けていたつもりだったが、本心では憐れんでいた。部屋の前を通る誰にも聞こえぬよう押し殺して咳込んでいることも、吐いた血を拭った布を部屋に入る誰にも見られないよう忍ばせている事も、俺は知っていたから。

世界だって季節だって、何も変わらず過ぎて行くのに、その中で自分だけが取り残されておかしくて、それを伝染させてしまっている事が何よりも絶望的で、何よりも苦しかったのだろう。

あれから何度かの様子を見に行ったが、その度に物を投げたり声を上げるなどして暴れた為、部屋の中に入る事は許されなかった。

ただかろうじて障子を挟んで声を掛けた時だけは返答を貰えて、それからはその場所があちら側との唯一の接点になっていた。




「――土方さん、いるんですか?」


気配を消していたつもりはなかったが声は掛けなかったから定かではなかったのだろう、外からは開かずの扉となってしまった障子を背に凭れていたこちらを、窺うように声を掛けた。


「悪いな、邪魔してる」
「いえ、別にいいんですけどね・・煙草、吸わないんですか?」
「馬鹿言え、さすがの俺でもそこまで野暮じゃねえよ」
「はあ、あんたくらい普段通りにしててくれませんかね?」
「あ?」


いい加減、どいつもこいつもよそよそしくてかなわない、ため息混じりに言った。
ならず者の獣のくせして気遣いが出来るなんて上等な、しかし皆思う事は同じなのだと苦笑した。


「今更、流れて来るもん吸おうが吸わまいがたいして変わりゃしませんよ」
「・・そうかよ」
「禁酒禁煙のほうが身体に悪い気がする」


それに、と続けた。


「吸っててくれた方がそこにいるってわかるから」



言われてからはお言葉に甘えて喫むようになった。ここに来るとあまりその気にならなかったのは嘘ではないし持参すらしていなかったが、そうする事で少しでもが安堵できるのであれば出来る限り普段通りにしていようと思った。


「あー、煙くせーなほんと、ニコ中が」
「おめーが吸えっつったんだろうが。もう聞かねーからな」
「さすが鬼の副長ですね、泣く子も黙るどころかもっと泣く」
「は、言ってろ」
「ねー土方さん、あんたは散らないでくださいね」
「・・散ってたまるかよ、おめーと一緒にすんな」
「はは、ひどいお人だ」


けどそれでいい、あちら側から聞こえる笑いにつられて息を吐くと、色が着いていた。 一体あと何回、こうやって言葉を交わせるだろうか、気付くと考えては宣告までの残り期日を指折り数えているのが我ながら女々しくて、情けない。




酒が飲みたい、床に伏せてから何かを望む事も少なくなっていた中で呟いた言葉に、次に来た時に持って来てやると約束していた。 戸を開けるのは躊躇われたが、この時だけは止められなかったので安心して、酌をしてやると嬉しそうに傾けた。
重ねている羽織りは分厚いのにほそい肩がわかって、脱がせたら浮き出てるに違いない。 久しぶりに見たは記憶にあるよりもずっと小さく骨ばっていて、いっそう深くなった二重まぶたの奥にある眼は、気がつくと真っ直ぐにこちらを見ていた。


「―どうした?」
「ねえ、ひとつだけ遺言、受け取ってくれません?」
「・・らしくねーな、言ってみろ」
「あの桜、今年もわたしの代わりに見てください、好きだったんで」
「・・ああ、見てやるよ。来年も再来年も、お前の分まで」
「じゃーよろしく、あと百回くらい」
「人外じゃねえんだ、無茶言うな」


目ェ開かねーよ多分、返しを受けて久々に見せる悪餓鬼の形でひひ、と笑った。
過去に飽きる程見てきたむかつく笑いが今はとてもいとおしくて、この先いくらでも見ていたいと思ったが、別人のように痩せこけた頬がもうそれも叶わないのだと物語っていて痛い程に理解させられて、自然と目頭が熱くなった。



「――副長、そろそろ、」


後ろから遠慮がちに、呟くように山崎が、タイムリミットを告げた。
ここに来る事は言わなかったが毎度の事だから察しが付いたのだろう、職務もそこそこに投げて出してしまっていた事も、彼女が傾けている物にも目を瞑ってくれている事が有難く、申し訳なかった。


「・・仕事サボってんじゃないですか、さっさと戻って働け給料泥棒」
「うるせーな、・・また来るよ」


うるせーもう来んな、ざらついた声で返事だけは変わらず達者な事に安心した。



と言葉を交わしたのはそれが最期だった。
息を引き取ったのは攘夷浪士討伐の任務で遠征の最中だった。江戸よりも南下した場所で、早くに開花の予報が出ていた為手土産に花弁か、開いてなければ蕾だけでも持ち帰ってやれば喜ぶだろうかと思った。
ありがたいことに総悟が大暴れしてくれた為、踏み込んでから片付くまでは予想外に早くちょろいものだったが、俺達が帰途に着く頃にはとっくだった。
知らせが来なかったのは部隊の動揺を防ぐ為だったという。零れ落ちるものを堪える事も隠すこともしない、真っ赤に目を腫らした上司に責める言葉なんて見つからなかった。


化粧を施されて穏やかな表情で眠るものが別の人間だと思いたかったが、掲げられた写真の中の笑顔は見知ったそれだったので、慣れてはいたし時間はあった筈なのに、なにひとつ覚悟なんて出来ていなかった事に気付かされて、自分自身で驚いた。

あいつには似合わない、辛気臭い部屋から逃げ出して、染み付いた香の匂いを掻き消すように火をつけると、後ろから声を掛けられた。


「トシ、お疲れさん」
「あんたもな、仕事残ってんだろ?後は任していいから」
「ああ、悪いな、、お前も休む間なかっただろ。暫く暇取れよ」
「いいさ、色々見逃して貰ってたしな。それにサボってたらあいつに怒られんだろ」
「はは、それもそうか」


暇を嫌う奴だった。怠慢は罪だと、よく言っては総悟と掴み合っていたのは記憶にも新しい。そんな人間にとってあの狭い部屋に押し込められていた事がどれだけ苦行だったか、どれだけ長い時間だったろうかなんて、計り知れない。
ああそれからと、思い出したように手を入れると近藤さんは、丁寧に包まれた白い布を懐から取り出した。


「棺には入れなかったんだが、あいつの枕の下にあったそうだ」


お前にやるのが良いと思ってな、そう言って手渡された包みを開くと、何処かで見た気がする、封をされたちりめんの和紙だった。
中に包まれていたものは、水を失い少しばかり変色してしまってはいたが確かに、あの時の桜の花弁だった。



「・・・はは、ずりーや、あいつ」
「・・トシ?」


植え付けていきやがった。

耐えていた訳ではなかった、そうしようにも出てこなかったものが今になって込み上げて、らしくないと笑われようが今だけはもう、どうでもよかった。

あの時泣いていたのはきっと空ではなくてあいつの方で、自身が悟った時から恐らくは最期まで、ずっと。




あれから何年経っただろう。
気が向いた時に参りにでも行く程度で、本体がいない墓にも位牌にも興味はなかった。ただあの時のように指折り数える事はなくなったが、また今年も、彼女が思いを馳せたこの木が蘇り鮮やかな薄紅色をつける様を見届ける事だけは忘れてはいない。
きっとこれからも。

一度くらい抱いておけばよかった。今でも時折思っては手遅れの邪にまた今日も自嘲して、掻き消すように頭上のそれに手を伸ばした。
掴もうとすると取り逃がした一枚がはらりと猪口の中に浮かんで、少しだけ胸の奥が痛んだ。

今は届きやしないけど、美しいこの色を焼き付けて来世まで、薄紅をはらんで笑う君を、俺はずっと待ち続ける。








夜桜ちりぢり


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(140805)