光の檻
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ひとつのことを除いては冷え切っていた。

物事を深く考えることをしないのは、単純に面倒なのとあとは、考えたところで世の中の殆どに正しい答えなどないと知っているから。
こだわりのようなものも基本的にはない、飛び抜けてなにかを愛でるようなことも同じく、思い返してみたところで浮かんでは来なかった。
そんなに長くは生きてない、ちいさな世界のちいさな引き出しの中引っ掻き回しても出てこないわけだからつまり、確実なものに近くて。 その中でひとつのものを見つけてしまえばそれは、よりいっそう際立つものらしい。

いったいなにが普通かなんて知らない、けれど比べたらきっと非常識だった、くだらない常識を、壊したのも抱きしめて欲しいと思ったのも多分、初めての人で。
おそらくはきっと恋に似ている、しかしそんな甘ったるいものでも生やさしいものでもない。
確かなのは、あの分厚い手のひらの感触も熱も、この先ずっと、忘れやしないということ。







刃こぼれがひどい。ドクドクとやけにはやい、血の流れる音を聴きながら、これじゃ得物はもう使い物にならないなと考えていたあたり、頭の方はわりかし冷静だったらしい。

そこらの薄給のリーマンじゃやすやすと暖簾を潜ることも難しかったような。確か一見さんお断りが謳い文句だった、この場所も、明るみになればいわくつきかと、遠のく客足を想像してすこし残念な気持ちになった。

こんなものかと、思ってしまったのは正直な感想だった。
思えば毎日が予行演習のようなもので、やっと訪れた本番の、人を斬ることも命を奪うこともいざやってみればただの延長線で、そんなに難しいことでもなかった。
お前それでも人間か、どこかで聞いたフレーズが頭の中で流れて、果たして人間なのだろうか、自信がなくなって。違うのだとしたらはやく人間になりたい、思ってすこしだけ笑えた。

事が終われば残っているのは、壁も天井も真っ赤に染める血飛沫と転がった死体と、静寂だけ。あまり言葉の種類を知らないわたしには何とも形容しがたい、とにかくひどい有様で。
降伏し刀を捨てた何人かの浪士は捕縛され表へ連行されたが、大半は床に転がったままもう、動かない。
護ったものは命か信条かどちらか、どちらにせよもう身動きは取れまい。

真一文字にこびり付いた血液をはらって鞘に収めようとすると、すこしだけ入り口に引っ掛けてしまった。
がたついてたのは刃のほうかそれとも。


(こっちかな・・)


すこし心配になって確かめてみたけど問題はないようだった。
握って開いた手のひらの向こう側の、わたしよりはるかに大きい白い手が視界に入って思わず顔をしかめる。あちらのほうはもう動かないのだと、思うとなんともいえない気分だった。

わたしが殺したのだ、考えたらあーあとため息に似た声がもれてしまった、けれど何も返っては来なくて、冷たい空気に吸い込まれて消えた。

悪巧みにはもってこいの、小さな窓がひとつあるだけの部屋は、そのものは大振りでも閉め切ってしまえば空気はうすくて、息を吸うたびに焦げた火薬と鉄錆のにおいが鼻をかすめた。五感全部でこの血なまぐさい惨状を受け止めてすこしこみ上げそうになって、当たり前に居心地も気分もよろしくない。なのにしばらく動けなかったのは、なんとなくこの光景を忘れてはいけない気がしていたからで。

それはこの平坦な世界そのもののことをいうのだと思っていて、とっくに両脚つっこんでるつもりでいた、なんて見当違いもいいところ。わたしの中では始まったばかりの、自分たちが作り出すこの光景こそがまさに。

地獄だ、と思った。







声のでかい人だった。図体も同じく、内緒話なんてできやない、ボリュームの絞り方を知らないポンコツのステレオみたいな。しかしそこから生まれるものだと思うと納得のいく。
調子でもわるいのかもしくは、静けさにつられただけだと思いたかった。笑う時も泣く時も豪快で、うかがうような穏やかな声はとても、この人には似合わない。

振り向きたくとも動けないのはどうしてなのか、そう思いたくなくてももう、理由はわかってて。

ねえ、あんた今いったい、どんな顔してる?
振り向けなかった代わりに浮かべた問いかけは、お疲れさんと頭の上に置かれた手が邪魔をして、出てはこなかった。


「近藤さん・・」
「たいした怪我はしてねーな、流石だよ」


なにも変わらないまぶしさだった。近藤さんは、初めての時と同じ顔で笑っていた。
お上の為に人を殺せるか、自分が殺したしかばねの上を踏み越えて、前に進む事ができるかと、問いかけた彼に、やってみせるとのたまったわたしに、それじゃあよろしくなと一言、返した時の、あの。

やさしい声に、動けなかったのはおそろしかったからだ。糸の先にいるこの人の、かなしい顔を見ることがわたしにとってはなによりも。
ここが地獄だと知ったところで絶望とか後悔とかそういう、やわな感情はひとつも浮かばなかったというのに。
この人もこの場所も、いつの間にこんなにも大切な。

勝手に勘ぐって勝手にこわがっていただけだと、気付いてこみあげたのは情けないからか安堵したからなのか、どっちだろう。
自分で望んでいたくせに、人を弱くさせる生と死の境目のおそろしさは、この場所に立って初めて知った。

自慢じゃないけど腕には自信があった、それだけが自分を生かしていると思っていた。その為に首輪を付けることも、殺すことも殺されることも、おそろしくはなかった。それしかなかったから。
うぬぼれていたわけでもないのだと、足元を眺めて確固たるものになったことでよろこびさえ感じる。しかし相反して内側のほうはめっきり弱くなってしまったらしい。

人間て意外と頑丈なつくりをしているんだと初めて知った。人を殺めた瞬間の、生まれてはきらめいて散って行く光の中で、魅了されながらいったいどちらが正常でどちらが異常なのか、わからなくなって。
わずかにほどけそうになった右の手を、繋ぎとめてくれたのは見慣れた黒い背中で。

刹那、手放すわけにはいかないと思った。


「近藤さん、怪我は?」
「こんなん無傷みてーなもんだ。おめーは顔切っちまったなァ」


目の上を荒々しくなでる指がくすぐったい、切れた隊服の肩口が映ってすこしだけかなしくなって、血が出ていないことに安心して、誰がどうなろうとどうでもいいと思っていた、冷たいわたしはもういないのだと知る。

血で汚れていつも以上にぶさいくなのに、きらきらと輝いてまぶしい、やさしい笑顔に、惚れたなんてもんじゃない、とっくに焼かれてしまっていたらしい。太陽のような、太陽よりもあつい、目眩がしてしまいそうなほどの熱に。

借りもののようだと思う、ぼやける視界も不自然にうわずる心臓も、けれど返すあてがなければ認めざるをえない。


「俺ァお上の所に行かにゃならねえ、、おめーは総悟達と先に戻ってろ」
「遺体の処理は?」
「奉行所に引き渡す。検分が必要だからな。後は他の奴らに任せとけ」
「でも、」
「いいんだ、お前は。トシが待ってる」


喉の奥が、じわじわとこみ上げる熱に焼かれそうになって、トシは、絞り出した声がかすれてしまった。


「トシは・・怒ってるかな」
「かもしれねぇなァ。だが遅かれ早かれ、いずれは来る事だ」


命の取り合いの中で浮かべてしまった、いつだって形のいい眉を顰めて、わたしのただひとつの生きる理由を、認めようとせず閉じ込めようとしていた彼の、蹴破ってこじ開けた、やさしい檻を。

どうして気づかなかったのだろう、どうして、気付いてしまったのだろう。いつの間にか入り込んで弱くさせて、危うく手を緩めるところだったというのに、繋ぎとめたものも同じで。
どうしてこんなにも、いとおしい。


「わかってんだ、あいつも腹括らなきゃいけねーことくらい」


じゃねーと前に進めないだろう、真っ直ぐな目で見下ろす近藤さんに、そうですねとだけ返す。
きっと本当にその通りで多分、良いも悪いもない、どっちも間違ってはいないのだろう。
結局、わたしは前に進めたんだろうか。彼は、待っていてくれるのだろうか。またいつものように眉間に皺を寄せて、拳骨の一発でも繰り出してくるのだろうか。
それでもいい、それがいいと思った。別にそんなマゾヒストな趣味は一切ないけれど、許されるのなら何発だろうと甘んじて受けよう。


「近藤さん」
「おう?」
「誰も、死ななくてよかった」
「・・そうだな、俺達の勝ちだ」


生きていることが勝ちだというのならば、きっと負けだと思う。
わたしはこの日死んだのだ。きっと誰も知らない、ゆっくりと沈んで消えていった、わたしの中だけの。

死んだことがかなしいのかそれともらうれしいのか、鼻のあたりがつんとして胸の奥が苦しくて、こみ上げるものの正体がわからない、でも嫌な感覚ではない。これはきっと満たされているからだと感じる、初めて人間になれたのだと。

こういう時にどんな顔をするのが正解か、考えたけどわからなくて、感情のまま任せたらどうやらおかしな顔をしていたらしい。目が合って、同じく困ったように近藤さんは笑った。


「おいおい、らしくねーな。いつもみてーに笑ってやれ、やってやったぞってな」


かき回されすぎて多分ぐしゃぐしゃの、髪に絡んだささくれた指がうざったいことこの上ないというのに、笑えたのはしあわせだからだろう。


「ねえ近藤さん、わたし今まで自分はつよいと思ってたんだけど」
「うん?」
「どうやら違ってたみたい。今日はじめて本当につよくなった気がする」
「そーかそーか、そりゃあ頼もしいな」


立派な侍だと、言われてうへへと笑う。いつものままでいい。何もおそれることなんてない。

斬って殺して、なまぐさい血で汚れて行く足元の、その先に何があるのだろうかなんて、考えたところでわかるはずもない。けどいつか答えは出るのだろう。たとえそれがどんなに冷たい場所だとしても、きっと寒くはない。
この人がそばにいるのなら、笑っていられる、前に進める。

生きる理由がひとつ、増えたことが嬉しかった。

忘れやしない、ひとつしかやり方を知らなかったわたしに、わたしの中に、与えてくれた、生んでくれた熱を。

手放せない、手放すつもりもない。ここにいれば強くなれると知った。
誰よりも、どの場所よりもやさしくてあたたかい、光の中で身を焦がす。










光の檻


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(140916)